「人種概念」が生物学的実体をもたず,社会的構築物にすぎないということが了解されてから久しい.しかし,その人種がいまだに強固な社会的リアリティをもつと信じられているのはなぜだろうか.本書は,そのリアリティを生み出す人種の表象に着目し,様々なメディアや言説を通した表象の主体的役割に光をあてる.
人種のリアリティはどのように生み出されるのか,映画やスポーツからヒトノゲノム研究にいたるまで,人種をリアルなものとする表象の仕組みを解き明かす
本書は,『人種概念の普遍性を問う――西洋的パラダイムを超えて』(二〇〇五年,人文書院)に続く,分野横断的・地域横断的な人種に関する共同研究の成果である.前書では,人種概念そのものを洗い直すことを試みたが,本書では,概念と表裏一体の関係にある実在性の問題に迫る.過去半世紀における一部の自然人類学の研究成果と遺伝学の飛躍的発展により,人種は生物学的実体をもたず社会構築物に過ぎないという知見が,ある程度まで浸透した.これは人種に対する根本的誤解を改める意味では寄与したが,反面,大きな課題を残すことにもなった.生物学的実体はもたず,社会構築物であると説明しても,日々の生活実践における人種主義を解明することには何らつながらない.また社会構築物,つまり虚偽(フィクション)であるならば,社会的に人種(皮膚の色(カラー))を考慮する必要はないといった,カラーブラインド社会指向の議論に利用されるという,予期せぬ結果も招いたからである.人種に生物学的実体がなくとも,社会的リアリティは存在する.われわれの日常生活において,人種は,スポーツ,音楽,教育,社会福祉,医療にいたるまで,社会のあらゆる場面において強固なリアリティをもち続けている.存在しないはずのものをわれわれがリアルに感じるのはなぜなのか.問いの立て方を変えるなら,何がどのように人種のリアリティを生成し,再生産させているのであろうか.その考察の鍵を本書では「表象(representation)」に求めたい.
人種表象については,映画研究や隣接領域の視覚文化研究など,すでに膨大な先行研究が存在している.後に詳述するように,ヨーロッパ,北米,南米,東アジアという多地域にまたがる事例研究を学際的に収めた本書は,東アジアに存在する「見えない人種」の表象と,これらの他地域の事例とを接合させることによって,広い射程から人種表象の理論化に向けた新たなアプローチを探る.ただしそれによって意図するのは,欧米対日本,欧米対アジアという二項対立的な比較対照ではない.本書は,欧米の人種表象研究の蓄積から日本やアジアを見つめ直し,また日本の視点から欧米における非視覚表象を逆照射するという,双方向的で相補的な人種表象の解釈を提示することを目指すものである.
「総論(竹沢泰子)」より
総論 表象から人種の社会的リアリティを考える(竹沢泰子)
人種とジェンダー・セクシュアリティ・階級の交錯
1. アメリカ合衆国における「人種混交」幻想――セクシュアリティがつくる「人種」(貴堂嘉之)
2. 「哀れなカッフィ」とは何者か?――黒い肌のチャーティスト(小関隆)
3. もう一つの「ネルソンの死」――黒人と女性はなぜ描き加えられたのか?(井野瀬久美惠)
Ⅱ 「見えない人種」の表象
4. 虚ろな表情の「北方人」――「血と土」の画家たちによせて(藤原辰史)
5. 「顔が変る」――朝鮮植民地支配と民族識別(李昇燁)
6. 見えない人種〉の徴表――映画『橋のない川』をめぐって(黒川みどり)
Ⅲ 科学言説の中の人種
7. 混血と適応能力――日本における人種研究 1930-1970年代(坂野徹)
8. ヒトゲノム研究における人種・エスニシティ概念(加藤和人)
Ⅳ 21世紀を歩み出した対抗表象
9. 「黒人」から「アフロ系子孫」へ
――チャベス政権下ベネズエラにおける民族創生と表象戦略(石橋純)
10. ポスト多文化主義における人種とアイデンティティ
――アジア系アメリカ人アーティストたちの新しい模索(竹沢泰子)
11. 人種表象としての「黒人身体能力」
――現代アメリカ社会におけるその意義・役割と変容をめぐって(川島浩平)
あとがき
索引(事項・人名)
執筆者略歴
京都大学人文科学研究所教員.文化人類学.
『日系アメリカ人のエスニシティ――強制収容と補償運動による変遷』(東京大学出版会,1994),Breaking the Silence: Redress and Japanese American
Ethnicity(Cornell University Press,1995),『人種概念の普遍性を問う――西洋的パラダイムを超えて』(編著,人文書院,2005)など.
一橋大学大学院社会学研究科教員.アメリカ合衆国史,移民・エスニシティ研究,人種研究.
『アメリカニズムと「人種」』(共著,名古屋大学出版会,2005)『歴史のなかの「アメリカ」――国民化をめぐる語りと創造』(共著,彩流社,2006)など.
京都大学人文科学研究所教員.イギリス・アイルランド近現代史. 『1841年――チャーティズムとアイルランド・ナショナリズム』(未来社,1993),『プリムローズ・リーグの時代――世紀転換期イギリスの保守主義』(岩波書店,2006)など.
甲南大学文学部教員.イギリス近現代史,大英帝国史.
『植民地経験のゆくえ――アリス・グリーンのサロンと世紀転換期の大英帝国』(人文書院,2004),『大英帝国という経験』(講談社,2007)など.
京都大学人文科学研究所教員.ドイツ農業史.
『ナチス・ドイツの有機農業――「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』(柏書房,2005),『食の共同体――動員から連帯へ』(共著,ナカニシヤ出版,2008)など.
京都大学人文科学研究所教員.近代朝鮮史.
「〈新女性〉――植民地時代末期女性の‘皇民化’運動」(『韓国民族運動史研究』20,1998),「朝鮮人内鮮一体論者の転向と同化の論理――緑旗連盟の朝鮮人イデオローグを中心に」(『二十世紀研究』2,2001)など.
静岡大学教育学部教員.日本近現代史.
『異化と同化の間――被差別部落認識の軌跡』(青木書店,1999),『つくりかえられる徴――日本近代・被差別部落・マイノリティ』(解放出版社,2004)など.李昇燁
日本大学経済学部教員.科学史,科学論.
『生命科学の近現代史』(共著,勁草書房,2002),『帝国日本と人類学者――1884-1952年』(勁草書房,2005)など.
京都大学人文科学研究所教員.科学コミュニケーション論・生命倫理・生命科学史.
『生命科学』(共著,東京化学同人,2004),”The Ethical and Political Discussions on Stem Cell Research in Japan”,W.Bender et
al.(eds.),CROSSING BORDERS: Cultural and Political Differences Concerning Stem Cell Research(Agenda
Verlag,2005)など.
東京大学大学院総合文化研究科教員.ラテンアメリカ文化研究.
『熱帯の祭りと宴――カリブ海域音楽紀行』(柘植書房新社,2002),『太鼓歌に耳をかせ――カリブの港町の「黒人」文化運動とベネズエラ民主政治』(松籟社,2006)など
武蔵大学人文学部教員.アメリカ史・アメリカ研究.
『都市コミュニティと階級・エスニシティ――ボストン・バックベイ地区の形成と変容,1850-1940』(御茶の水書房,2002),ジョン・ホバマン『アメリカのスポーツと人種――黒人身体能力の神話と現実』(翻訳,明石書店,2007)など.